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【神】癌(骨肉腫)サバイバーに与えられた力

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病気になったけど それでも幸せになる為の人生の歩み方

私の電子書籍紹介

【電子書籍brain(ブレイン)】
◼️書籍名
喘息でも頑張ってる自分を褒めて幸せになる教科書[著者喘息歴50年]
ブレイン(Brain)にて、販売中

次回作予告
◼️タイトル
【生き抜く力】
「ガンと戦う10歳の僕に起きた奇跡」
*わずか10歳で、100万人に1人の難病(骨の中に発症する希少ガン) を発症。ガン告知と右足切断の承諾確認を経験した私が、闘病当時の心境を語る。
ブレイン(Brain)、noteにて、2021年11月1日販売決定。
*今回の書籍【生き抜く力】「ガンと戦う10歳の僕に起きた奇跡」の売上金は、すべてを、難病の子供たちを支援する団体に寄付させていただきます。
寄付金額についても、当ブログにて公開致します。



◼️自己紹介
3歳から重度の気管支喘息を患い、
10歳の時、100万人分の1の発症率の難病 骨肉腫(骨の中に発症するガン)を患った。
わずか10歳で、ガン告知と、右足切断の承諾確認を受けた。
病と共に歩んだ人生を、克服してきた私が解く。
病気を克服するための、そして人生を生き抜くための方法を発信。

■メッセージ
喘息の持病を患っておられる方、
喘息を患っていらっしゃるお子さんのご両親の方へ、お伝えしたいメッセージがございます。

私は3歳から喘息を患いました。今から50年も昔の話です。当時は、発作を抑える為の効果的な薬も少なく、一度発作が起きると数日間苦しい日が続きました。何より苦労したのは、この喘息の苦しさを喘息持ちではない方に理解してもらうことでした。私の場合、ほんのちょっとの気のゆるみが喘息の発作をまねきました。
それは、ぜんそくを患っておられない方からすると、ほんの些細な事であったり、状況や場面なのです。例えば以下のような場面です。

例①
夕方に屋外で遊ぶことができない(夕方の冷たい空気で喉が冷え、発作が起きるため)

例②
皆と花火が出来ない(花火の火薬から出る煙で発作が起きるため)

例③
身体が疲れることは出来ない(身体が疲れることをすると、例外なく発作が起きるため)

子供がぜんそくを患っている場合には、このような場面への遭遇を予見し事前に回避することが難しく、遊びに夢中になり、ついつい上記のような場面に遭遇する訳です。
ぜんそくの持病をお持ちでおられない方にとっては、「こんなことくらいで、発作が起きるのか?生まれつき身体が弱いのか。もっと運動して身体を鍛えなければいけないぞ。」と、私からすると、なんとも短絡的な言葉表現で、喘息という病気を軽視して、しまわれるのです。私自身、特に発作のひどかった幼少期の当時はそのような周りの方の言動がとても怖く、大変辛いものでした。
「周りの人は、ぜんそくの辛さなんてわかってくれない。」とてもとても孤独な幼少期間を過ごしてきました。
わたしのブログでは、ぜんそく患者さんと、周りの方々へ向けて情報発信するものです。

【わたしのこれまでの病気遍歴】
幼少期の私は、とにかく発作がとても辛くて、情けなくなり、よく泣いていました。友達と同じように遊んでるだけなのに、すぐに発作が起きる。そして、数日間夜も眠れないほど、発作に苦しむのです。特に夜間の発作が酷かったため、明け方まで苦しみ、明け方から寝付くわけです。ですから、小学校に行けるわけがありません。そんな日々を繰り返すのです。日中、両親は勤めに行ってますから、基本的に私は一人です。しかし、特に発作が酷い時は通院か、お医者様に訪問問診をお願いしなくてはいけないため、母親は仕事を休んでくれました。この時ばかりは、孤独感がかなり薄れます。そして、母親に甘えるわけです。とても幸せな瞬間です。昼過ぎの3時頃になると、小学校の友達が学校の給食のパンと牛乳、そして宿題のプリントなどを持ってきてくれていました。ちょうど、昼食後の薬の作用でぐっすり眠っている時間です。私の場合、一週間の内、2日くらいしか登校できませんでした。お医者様がおっしゃるには、病院に入院するレベルとのことでした。私は入院を頑なに拒否し続けました。喘息は孤独感を招く病院です。入院なんてしたら、さらに孤独感が強くなり、私自身、想像するのも恐ろしく感じたことを思い出します。その時代には、喘息の発作がある子供たちが通常の生活をしながら共同生活をする施設がありました。親元から離れて、同じ喘息持ちの仲間たちと喘息に負けない強い体力を付けて喘息を自然治癒することを目的とした施設があり、お医者様がすすめてくれたことを覚えています。その施設で頑張っている同世代の子供たち。親元から離れて喘息と戦っている。そんな話を聞いた頃から、「僕も喘息治したい。」そんな前向きな気持ちが芽生えてきたのが、小学校3年生くらいだったのです。 しかし、小学校3年生の夏、私の人生においてもっとも波乱な出来事が起すきるのです。周囲の誰もが想像すらできなかった、その波乱な出来事がその後の私自身の人生を大きく変えました。

【人は病を経験し、病と共に成長するものと信じています】
私が考えますのは、どのような種類の病気であっても、病気に対して勇気を持って向き合うことで、自身の成長するチャンスが平等に与えられるように思います。
そういう意味を含めて、人は病を経験し、病と共に成長するものと信じているのです。

【わたしがご提案する、ぜんそくをはじめとする病と共に人生を歩む方法や、克服方法】

生活環境が変われば、その環境下で生きるために必要な術を必ず見つけることができる。

 ■親もとを離れる勇気が第一歩となる。喘息持ちであっても、いつかは、自立しなければいけない時が来る。勇気を持ってその一歩を踏み出そう。それが自分自身に対する覚悟であり、成長の第一歩となる。

本当にこの通りである。実際のところ、いつまでも「喘息持ち」として生きていくことは出来ない。私自身の場合、喘息を治したいという気持ちが芽生えてから、現在に至るまでに、別の大病を経験するというハプニングがあったが、自身が、ある程度の年齢で、覚悟を持って、喘息と向き合うことが必要である。「いつかは、喘息を治さなくてはいけない。いつまでも喘息の発作に怯えていてはいけない。」と立ち向かわなくてはいけない。ただし、これには、周りの人の支えが必要である。小児喘息であれは、両親の支えが必要だし、大人の喘息に対しては、夫婦や友人などのメンタル面でのサポートが必要である。以前の話で記述しましたが、喘息は孤独な気持ちになりやすい病なのです。周りの人の支えは、喘息持ち当人の、病に立ち向かう勇気をアシストしてくれるとても大事な存在であることをわかってもらいたい。周りの温かいサポートがあれば、いつしか、当人すら喘息持ちであることを忘れてしまうのである。私の経験においては、喘息持ちであることを忘れるくらいになると、実際に発作も起きなくなっているから不思議である。やはり、喘息は「病気」ではなく、「病」と考えるのが正しいことだと思う。「気」は本人の持ち方次第であるが、周りからのサポートでも強く意識できるものと思う。この考え方が理解出来たら、喘息は半分(病と気の内、気の領域)が治ったも同然である。

■さぁ、思い切って大きく身体を動かして人生を楽しもう!

■いろんな活動を通して、様々な友人を作ろう!

喘息を治す為には、この2つのメッセージがこれからのクリアポイントです。

どのような病気であっても、病気に対して向き合い、そして受け入れるところからが治療となる。そんなアドバイスをいただいてから、私の喘息に対する考え方が変わった。幼少期から小学生低学年の頃の私は、内向的で、消極的だった。なぜなら、積極的な活動(遊び、スポーツなど)をするとほぼ例外なく喘息の発作が出るからである。おとなしくしていれば、発作は起きず一晩中苦しまなくて済む。当時はこの状態が良しとされ、この状態を維持するように、活発な活動を積極的にしないほうが良しと、両親や周りの大人などから刷り込まれていた。私は当時、何の疑問も持たず、学生時代を過ごした。しかし、私は病気に対して向き合い、そして受け入れるところから始め、喘息の発作に怯えることなく活動的な人生をスタートさせることを決意した。そして、私の両親も驚くほどの回復ぶりと活動的な姿になっていった。その頃の私の気持ちを言葉に表すと、

■さぁ、思い切って大きく身体を動かして人生を楽しもう!

■いろんな活動を通して、様々な友人を作ろう!                                   

以上のポイントはごくごく簡単な内容ですが、私が、継続的に行ってきたことです。他にも発作を楽にする方法があると思いますので、参考にしていただければなと思います。好き嫌いや個人差もありますのでね。実は、私は特別な特効薬を使用したわけでもなく、ごく普通の生活に上記の発作対策をとっていただけです。
あとは、積極的に活動をどんどんやっていたら、不思議なことに年々喘息の発作頻度が低下していったのです。
活動的なことをすればするほど、喘息に対する恐怖感も薄らいでいき、私の場合、単なる風邪と同じレベルに感じるようになったものです。

どのような病気であっても、病気の「気」をいかにクリアしていくかに、かかっているに違いない。いったん喘息持ちになれてしまうと、潜在的に喘息と自分自身の人生や生活とを切り離せなくなってしまう傾向にある。私自身も、このような潜在意識に支配され、喘息発作は当然起きるものという考えが定着していた。おそらく心理的な考え方では、この考えが、さらに喘息との離脱を難しくしているに違いない。喘息は治る病であることを自らの潜在意識の中にすり直して、喘息に立ち向かいたい。そうすることで、圧倒的に早く症状の改善が見られると思う。
ここでは私の経験として、高校生からの症状改善の兆しについてお話しますが、どの年代からであっても基本的な重要ポイントは変わりません。どの年代においても大切な要素は、「さあ、やるぞ!」、「友人やパートナーと人生を楽しむぞ!」という「気」つまり、気持ちなのです。高校生になった私は、いろんなことにチャレンジするようにしました。そして、その行動力は減速することなくむしろ加速し社会人になってからも継続的に維持できた。その状態は、以前の私をよく知る人たちは想像できないくらいの大きな変化だったようだ。私は、並の健康的な人たち以上に活発な行動力でもって人生を楽しむことができるようにまでなった。体力の消耗が大きい、ハードスポーツから、自然環境変化を楽しむ登山やトレッキングなどのアウトドアスポーツなどいろんなことを、とにかく誘われるままに経験してきた。私においては、これらのスポーツにはかなりハマった。だから長く続けることができたのだと思う。喘息の改善にはそれなりの期間がかかると言われている。出来るだけ、長く続けることができるものをすることがポイントとなる。自分にマッチしたものを探すことは、簡単なことではないが、まずは簡単なことからやってみることが良いと思う。やってみて、続かなそうであればまた探せば良いと思う。そうしていくうちに、広く浅くではあるが、以前、喘息持ちで消極的だった頃から比較してもかなり積極的に行動していることに気づく。ここで、大事な注意点を説明しておきますが、上記の積極的行動を継続している期間には、喘息の発作も起きているのです。しかし、何故か治りが早いように感じることが多くあった。そして、さらに不思議なことに年々喘息の発作頻度が低下していった。活動的なことをすればするほど、喘息に対する恐怖感も薄らいでいき、私の場合、単なる風邪と同じレベルに感じるようになった。喘息特有の呼吸困難となる症状自体もかなり軽度になっていた。私の場合、この状態になるまでに約30年間を要した。人生の3分の1近くを費やした計算になる。これも、学生時代の早いうちに、「気」を切り替えて人生の生き方を変えたからだと思う。

もしかすると、喘息は「重い病気」ではなく、「思い病」なのかなと考えることがあった。どのような病気であっても、病気の「気」の字を取ると「病」となる。病気は気と切っても切り離せない関係。病と気に区分できるとしたら、「気」をなんとかすれば、病気の半分は治ったも同然と言えるのではないかと考えた。今、このような考えができて、言葉にまで表現できているが、喘息で苦しんでいた頃には、そんなことすら考える余裕もなく、発信なんてする余裕もなかった。つまりは、どんな病気も「気」の持ちようだと言いたいだけである。「気」を攻略できたなら、病気の半分は治ったも同然なのだと、みなさんにお伝えしたかった。この第十話では、最後のまとめとして喘息の発作を少しでも軽くするポイントを私の経験をもとに、まとめました。一度発作が起きると、すぐにはおさまらないことが普通ですが、このポイントで少しでも早くよくなるように実践していただきたいと思います。
大人の方であれば、いろんなことを参考に試してみるのも良いかもしれません。
しかし、小さなお子さんの場合、周りの大人からの受け身で発作の対処しなくてはいけない状況が多くなります。
私もその経験から、周りの大人が喘息の発作の特徴や発作を軽くする工夫のポイントを知っておくことが大切だと思いますので、ぜひ、本記事を参考にしていただきたいと思います。喘息持ちの皆さんと、身近にいる喘息で苦しんでおられる方々の体質改善と、喘息発作が軽くなるようにお祈りし本編のラストとさせていただきます。
最後まで読んで下さりありがとうございました。
引き続き、

・新着トピックス

・症状を軽くするポイント

・発作を起こさせないポイント

・ガン発症後の心のケア

・ガン発症者のためのセルフケア方法

等を参考にしてください

ほっし校長


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◼️note掲載記事の紹介◼️

■必死に生きる

■喘息持ちの方、もしくは喘息を患っているお子さんのご両親の方へお伝えしたいメッセージ

小学校4年の冬、一年以上お休みしていた私は学校に登校した。その日は、どんよりと曇った、今にも雨が降りそうな悪天候だった。一階にあった3年生の時の教室から、いきなり校舎最上階の4年生の教室に移動していた。久しぶりの登校で最初の授業は国語の授業だった。しかし、私にはこれ以上のことはほとんど記憶がない。何故なら、次の日から喘息の発作とガンの後遺症で体調が良くない日が長く続いた為である。また以前と同じように、学校を休む日々が続いた。ガンになり、手術成功のお陰で、大切な命と右足を取りとめたが、手術で腹部に大きくメスを入れた後遺症は、小学生の私にはかなり大きなダメージとなっていた。手術をしたその年の冬は、腹部の傷口がズキズキ傷んだ。しかし、傷みを感じることが出来るということは、右足があるからであり、命があるからである。私は、小学生ながら、生きている実感を噛み締めた。そして、家での自宅療養中は部屋の窓から見えた、庭にある植栽の葉っぱが落葉していく様子を見ながら、亡くなっていく人の存在を感じ、自分自身の命がつながった理由を考えていた。 第6話に続く

小学校4年にして、人生の厳しさ、命の有り難さを実感する事になろうとは、想像すらしなかった。なんとなくであるが、以前から自分自身はごく普通の人生を歩むような気がしていたため、退院後、これからは良いことばかり起こるに違いないと、思うようになった。そして、「自分は、こんなに大変な病気から無事に生還できた。これは、とんでもなくすごいことなんだ。」と自分で勝手に盛り上がったりもしていた。「生還者」という響きが自分自身に勇気を与えた。この病気をきっかけに、精神的に成長し、少し早く大人になった気がしていた。また、この時の経験のおかげで、自分の人生を考える機会も増え、自分自身が生かされた意味、奇跡的に右足が残った意味なども今だによく考える。私は、この身体を大切にしなくてはいけない。私には、この身体を使って成し遂げる大事な目的があるに違いない。私の人生の目的は、そこにあるんだ!と、天から与えられた目的を探すように、大人になっていった。私は喘息持ちであるが、大病に負けない強さを持っていることが証明された。私はそのように思い込むことにしている。

その5年後、私は高校生になった。しかも、親もとから離れて生活することになった。自宅から100キロ以上離れた高校への進学を敢えて選択した。無理をすれば自宅から通学することもできるが、敢えて、親もとを離れる決意をした。私は、精神的に強くなり自立性、自主性が芽生え、孤独に立ち向かう勇気が出てきた。思い返せば、幼少期の私は喘息の発作から怯えるように生き、孤独感に押しつぶされながら生活していた。しかし、私は大きく成長した。この頃、喘息の発作は、年に数回程度にまで軽くなった。私が、思うに、結局のところ、どのような種類の病気であっても、成長するチャンスは全員に対して、平等に与えられる。

■人は成長する            生活環境が変われば、その環境下で生きるために必要な術を必ず見つけることができる。

■親もとを離れる勇気が第一歩     喘息持ちであっても、いつかは、自立しなければいけない時が来る。勇気を持ってその一歩を踏み出そう。それが自分自身に対する覚悟であり、成長の第一歩となる。 第七話に続く

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■必死に生きる

■喘息持ちの方、もしくは喘息を患っているお子さんのご両親の方へお伝えしたいメッセージ

小学校3年生の夏、それは昨年の夏とも、さほど変わらない、毎年同じように迎える平凡な夏になるものと信じていました。この大きな出来事が起きるまでは。喘息を治したいと少し前向きな気持ちが芽生え始め、学校の担任の先生からの勧めで、スポーツ少年団に入団することになり、ソフトボールとバレーボールを放課後に毎日やることになりました。喘息の発作が起ないように参加する時間帯を調整するなどの工夫をしながら初めてスポーツに打ち込むことができたのです。補欠ではあったものの試合にも出してもらったりと、充実した学生時代を過ごすことができたことは、私の人生においてとても貴重なことでした。スポーツにも慣れてきた頃、小学校3年生の夏、「そういえば、最近ズボンのベルトが閉まらなくなってきた。」と母親に打ち明けたことを覚えているが、それ以降のことを覚えていないのか、殆どを思い出せない。それは、このあと起きる大きな出来事が原因だ。 そして、私の人生においてもっとも波乱な出来事が起きるのです。周囲の誰もが想像すらできなかった。
私は、骨肉腫という、骨の中に出来るガンになった(私の場合、右足の付根部に発症)。そして、腹部が異様なまでに腫れてきた。当時は、この病気になるとほとんどの場合足を切断するか最悪の場合、命を失うことになる重い病気であった。私は、わずか10歳で命を終える危機に直面した。「私はどこまで病気に悩まされるのか。」喘息、そして骨肉腫にまでも、患ってしまった。そして、お医者様からは、ガン告知をされ、「右足を切断する可能性が高い」と告げられた。

第4話に続く

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■必死に生きる

■喘息持ちの方、もしくは喘息を患っているお子さんのご両親の方へお伝えしたいメッセージ

小学校3年生の夏、それは喘息以来の新たな試練となった。お医者様から「右足を切断することになるかもしれない。手術後に、病室に戻ったとき、自分の足がなくなっていて、非常にショックを受けてしまい、精神的におかしくなるかもしれないので、ガン告知をしましょう。」とお医者様と両親が話し合いをしていたようだ。結局、私はわずか10歳で、ガン告知と、足の切断の可能性があることを説明をされたのです。後から聞いたのだが、私の母親は、思わず泣き崩れたそうだ。手術を行うとき、喘息の持病を持っている人の場合、肺活量の確認と、そのトレーニングがある。私は喘息持ちのため、そとトレーニングを受けた。もう吐く息がないのに、「もっと、もっと息をはいて。」といわれる。「これをクリアしないと手術が受けられないよ。がんばって。」とプレッシャーをかけられながら、なんとか、試験はクリアした。私は、手術を受けることになったが、こんなところまでも、喘息との戦いがあった。そして、手術当日、午前から始まった手術は、その日の夜中まで続いた。私は手術後、病室に戻った瞬間に目を覚ましたが、また、すぐに深い眠りについたようだ。手術室から出てきた直後の私は、髪の毛が汗でべっとりしていることにも気付いた。手術はかなり多くの体力を消耗していた。深い深い眠りについて、目が覚めたのは、次の日の昼頃だったと記憶している。そこで、私は両親から、「お医者様が足を残してくれたよ。」と涙ながらに伝えてくれたことを思い出す。私は、とても運がいい。当時は数百万人に一人の確率で発症し、そのうちほぼ全員が、足を切断している。また、最悪の場合には、命を終えることも可能性があった。その中でも私は命だけではなく、右足も残った。気づけばもう冬が近づいてきていた。私は、退院後しばらくの間、自宅で学校復帰に向けての療養をすることになった。

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