近くにいる他人の愛
私は、中学校を卒業してから、直ぐに親元を離れて暮らした。
それは、私が選んでしたことなのです。
私は三歳から、気管支炎喘息を患い、中学を卒業する頃も、発作は定期的に発症していました。
当然ですが、独り暮らしをしても、それだけでは気管支炎喘息は治りません。
親元を離れて一人で暮らし、いざ、喘息の発作が発症したときは、頼れる親は近くにいないのです。
それがどれ程、たいへんで、心細いことなのかは、喘息患者さんなら、説明をしなくてもわかるほど、大変なことなのです。
しかし、私には、この独り暮らしの選択をする必要があったのです。
それは、自立のため。
人は一人では生きていけません。しかし、生まれ、亡くなっていく過程で、結局は一人なのです。
私は、その事を理解していました。
理解していたけど、行動しようとしなかった。
とても怖かったのです。
勇気がなかったのです。
病気に負けるのが怖かったのです。
しかし、私は、そのままではダメなのだと、強く思えたのです。
燕の親鳥が、こしらえた巣の中に産んだ卵から、雛鳥が羽化し、親鳥が運ぶ餌を大きな口を開けて頬張る。そして、羽毛が生え変わり、一人、巣の中から飛び立つ。
しかし、今までの私とは違うんだ。
何が起きても、一人で何とかするんだ。
私は独り暮らしすることを決心した。
私の両親は、私の身体のことをとても心配していた。
母親は、私の食事のこと、そして、喘息の発作が出たときのこと。
父親は、私の身体のことを、心配していた。
私は知っている。父親が初めて購入した、電話帳の二倍の厚みがある広辞苑の辞書。「さ」行のある箇所にボールペンで、マーキングがしてあることを。父親がマーキングした言葉は、「ぜんそく(喘息)」だったことを。一般向けの医学書の市販が少なかった時代に、父親は、私の病気について調べていたことを。
それだけ、私は両親に心配をかけていたのだということを知っていた。
だからこそ、独り暮らしをする意味があるし、実家の親元を巣立ちする必要があった。
そして、私は独り暮らしをするなかで、近くの他人の愛に包まれ、生きていく大切さを知った。